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寄稿コラム:道を求める修行としての居合道とは…


 ー 全日本剣道連盟 居合道範士八段 山正博 著

1.居合道を通じて何を学ぶのか



明治10年の廃刀令以降、わが国では日常生活において刀を腰に差して生活することはなくなりました。したがって、刀を差した状態で何者かに襲われるということも通常考えられないわけで、居合を護身術として修行するということは現実的ではないと言えます。

では、なぜ私たちは、刀を使用しない現代社会の中で、刀を用いる武道である居合道を修行するのでしょうか。

全日本剣道連盟は、剣道の理念を、「剣の理法の修錬による人間形成の道である」と定めています。居合道に関しても同じであるとされており、居合道修行者はその修錬を重ね、技術の習得に努め、その過程において精神を鍛えることができます。この精神性を向上させることが、「人間形成」につながるということであり、目指すべき修行のあり方であると言えます。
 

2.「居合術」から「居合道」への昇華



居合道は、かつては「居合術」「抜刀術」などと呼ばれ、敵の不意の攻撃に備えた武術として伝承されてきました。しかし、その極意は、「居合とは己の心に勝つばかり、人の非を見て人に逆うな」や「居合とは、人に斬られず、人斬らず、己を責めて平らかの道」などと詠われるように、刀を抜かずに「共に生きる」ことを悟ることでした。刀によって闘う時代において、このような境地に到達するのは計り知れない修行の積み重ねによるものと推察するところです。

一方、現代における「居合道」とは、いかなるものでしょうか。全日本剣道連盟では、剣道、居合道、杖道について、それぞれ称号・段位審査規則を定め、その中で称号及び段位の付与基準を定めています。特に、称号の付与基準において、「範士は、剣理に通暁、成熟し、識見卓越、かつ、人格徳操、高潔なる者」とされており、同規則の中では最高位とされています。筆者も付与基準を思うにつけ、身が引き締まり、自らを律するよう努め、範士としての「道」を求めているところです。

こうした称号や段位に応じた付与基準を設け、修錬を重ねる中で目標とすべき「あり方」を指し示すことで、「道」としての意味合いを色濃くしています。まさに、「居合術」から「居合道」へ昇華したと言えるでしょう。

3.「道」とは何か



では、「道」とはそもそも何なのでしょうか。
端的に言えば「未完のものを求める過程」と言えるでしょう。言葉の根源は、中国の書物の四書五経の一つで、占いの解説書である「易経」に見ることができます。同書には、「形よりして上なる者、之を道と謂い、形よりして下なる者、之を器と謂う」という言葉が登場します。自然界において形として現れるものを「器」と表現し、形に現れないいわば思想や哲学を「道」と表現して整理しています。中国を起源とする儒教や道教の東洋哲学が「道」であり、これにわが国の武士の社会における精神文化とを融合させたわが国独特の「道」という概念が生まれたものと考えます。

さらに、居合道における「形」は、武術としての理合を追求したうえで、精神性を文字通り「形」としていかに表現するかが肝要であり、これを探求することが「道」につながるわけです。

4.「道」としての「居合道」を伝えるために…



私は、丸8年の間、全日本剣道連盟居合道委員を仰せつかり、全日本剣道連盟居合のあるべき姿を思案してきましたが、実現できず心残りとなっていることがあります。それは、「居合」の極意とされてきた刀を抜かずに勝ち「共に生きる」思想を全日本剣道連盟居合において伝承するための「技」「形」を盛り込む改定を行う必要性に気づきながら、その合意形成に至らしめることができなかったことです。

現代において、居合道は人を斬るために修行するものではなく、修行を通じて修行する者がその精神性を高め、大切な何かを後進に伝え、国家社会の平和のために尽力することが肝要であり、全日本剣道連盟居合の「技」にその意味合いを込めることがこれからの課題であると考えるものです。

今の私ができることは、私が考える居合道の「あるべき姿」をさらに探求し、それをこれからの居合道界を担う若い世代に託すことであると考えています。さらなる道の探求、修行に邁進してまいりたいと思います。




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