居合道 道場案内所 



今月は、江戸時代後期に端を発する神変自源流しんぺんじげんりゅうを30歳という若さで継承した六代宗家 細沼孝宗 様に執筆をしていただきました。流派を代表する立場である「宗家」には誰でも簡単になれるものではありません。駆け出しの宗家として何を想うのか。また「宗家」とは何か、どうあるべきなのか。ぜひお読みください。




無名流派の新米宗家として想うこと


ー 神変自源流 六代宗家 細沼孝宗 著


1.神変自源流しんぺんじげんりゅうについて


神変自源流しんぺんじげんりゅう一ノ割道場いちのわりどうじょうは、流派としても道場としても比較的歴史が浅く、知名度も決して高くはない、マイナーな道場です。なのでちょっとだけ説明しますね。

神変自源流しんぺんじげんりゅうは、居合術を主とする流派で、1816年に薩摩国さつまこく(現在の鹿児島県)上野種左衛門教宜うえのたねざえもんのりよしによって創始された居合流派です。上野教宜うえののりよし天眞正自源流兵法てんしんしょうじげんりゅうへいほう皆伝かいでんを得たのち、家伝かでんの剣術であった上野新陰流うえのしんかげりゅうの技法と融合させ、そこに当時流行の各居合流派のエッセンスを取り込むことで、神変自源流しんぺんじげんりゅうを作り上げました。

元となった二つの流派が、片や薩摩さつま示現流じげんりゅうの系譜、片や疋田陰流ひきたかげりゅうの分派と、戦国期に端を発する極めて実戦的な流派であるため、神変自源流しんぺんじげんりゅうもまた「神速しんそく」と称される速度重視の質実剛健しちじつごうけん太刀筋たちすじを残し、「血流し」と呼ばれる独特な残心ざんしんなど、興味深い特徴を今に伝えています。

しかしながら、開祖である上野教宜うえののりよしが目指したものは、必ずしも必勝の剣ではありませんでした。彼があくまでも居合というジャンルにこだわったのは、どんな場所においても一人で稽古ができ、技術は当然として精神の鍛錬として最適だと考えたからです。ゆえに当道場でも他者をねじ伏せるような武張った在り方よりも、より穏やかで、他者を敬うことを、なにより重んじています。

神変自源流の残心「血流し」
神変自源流の残心「血流し」


2.居合道について


2019年1月、五代宗家である上野景範うえのかげのりから道統を受け継ぎ、私こと細沼種左衛門孝宗ほそぬまたねざえもんたかむねが六代宗家を襲名いたしました。その後、先代のもとを離れて自身の道場を設立いたしましたが、私自身30歳を過ぎたばかりで、なにかと不安の多い状況でした。

一方で、こうした状況と神変自源流しんぺんじげんりゅうの思想は大変相性が良いのも事実でした。もともと大学院で文学研究に励み、教員を生業としていた私としては、どちらかといえば古式ゆかしさよりもリベラルな気風が肌に合います。また、これまで表立って指導されてこなかったマイナーな流派の、それも新しい道場ということで、しがらみもなにもないというのはありがたいことです。

Twitterを中心に術理解説や動画を公開したり、様々な分野の方と交流するなどの活動を通じて、少しずつ門人も増え、よい感じになってまいりました。こうした気軽さを冗談めかして、それこそ「神速」などと吹いておりますが、フットワークの軽さは案外本当に神変自源流しんぺんじげんりゅうの思想に根差したものかもしれません。

例えば親流派の自源流じげんりゅう共々、師弟の関係に実力の上下はあっても身分の上下の意識が希薄であるというところは面白いところかと思います。私は師範であり一流の宗家ではありますが、それはたまたま神変自源流しんぺんじげんりゅうという限定的な技術体系を先に学んでおり、かつ先に水準に達したからであって、門弟の方々よりも人品が優れていることを意味しません。そもそも同じ人と人でそのような優劣がありようもないわけなので、自然私は未成年の門人に対しても基本的に敬語で接させていただいています。細かいところでは道場の運営、指導の仕方、それらに関しても気が付いたことがあればそれも遠慮なく申し出るように繰り返しお願いしてあります。なにせ私よりも年上の方、才能のある方、そんな方はいくらでもおられる。無理に私が一人で頑張ることはないのです。

師とは技術を教える役割であり、宗家とは正解の形を伝える役目。裏を返せば”ただそうであるだけ”で、師弟がそのまま君臣くんしん関係となることはありません。以前剣道を学んでいた折、門人に自身の稽古着を畳ませている方をお見掛けしましたが、これなども神変自源流しんぺんじげんりゅうにおいては決してありえない光景です。

ともに稽古した場はともに掃除し、自身のものは自身で整理する。そこに師弟の区別はありません。どちらも神変自源流しんぺんじげんりゅうを学ぶ者なのですから。師範になったら学びが終わるというのであれば仕方ありませんが、少なくとも私はまだまだ先が見えません。そういった意味では、自分で袴も畳めなくなったら、稽古者としては店仕舞、後継にまかせてさっさと引退したく思います。一度稽古に出席したらきっかり五百円。この程度の謝礼では場所代を考慮すればろくに利益もありませんし、マイナー流派の宗家なんて人に威張れる権威でもないので、よほど私には気楽です。

(左) 五代宗家 上野景範、(右) 六代宗家 細沼孝宗
(左) 五代宗家 上野景範 氏、(右) 六代宗家 細沼孝宗 氏


3.剣を通じて他者と交わることについて


上手下手や勝ち負け、極論すれば生死の別。そういったものは存在しても、本来剣の世界には上下の思想はありえません。鯉口こいくちを切ったらもう対等の勝負です。相手が偉い先生だから抜かずに斬られておくなんていう法はありません。これはある意味では究極の無礼講、とても清々しい世界です。そもそも斬っても斬られてもどうせ百年後にはどちらもむくろですから、多少早いか遅いかの差です。こうした価値判断を日常に持ち込むと、いろいろなものが楽になります。私も相手も等しく価値はないし、逆に言えば等しく掛け替えのないものなわけで、つまらない意地の張り合いやマウンティングが空疎に思えてきます。剣の勝負が相対的な攻防の果てに決するように、目の前の相手への接し方次第で、どこにでも学びや成長の機会は転がっています。そこに剣の抜きつけのように抜け目なく、隙を逃さず、さっと笑顔で手を差し出せば、それが人生の勝利につながるのではないでしょうか。

なかなか揉め事の多い武術界隈ですが、本質的にはこれほど純粋に人と人が対等に交わりうる場もないように思います。時に気追い込むと”勝とう勝とう”となりがちで、そのせいで人と衝突することも間々あり、なかなか難しいところではあります。特に自身の技術や権威に固執すると、こうした罠に陥りやすいです。

そもそも居合がなくなっても人類は滅びませんし、居合をやめても私は死にません。逆に今人類が絶滅したら居合は当然なくなりますし、私がへそを曲げたら神変自源流しんぺんじげんりゅうは断絶です。人と居合、どちらが大事かは一目瞭然ですね。こだわるべきは技術でも権威でも居合でもありません。まず人を大事にできなければ、相対的な競技である武術での上達はありえないです。

自分を大事に、そしてそれに等しく相手を大事にする。そうすると居合も丁寧になって、趣味が充実すると仕事やら恋愛やらも楽しくなって、もっと自分や他人を大事にできます。私にとって居合は、そうした良きスパイラルの起点、人と人の関係を強く意識するツールです。

私は道場こそ主宰していますが、それも同じ意味、同じ目的のツールです。良い門人が多く集まって欲しいと思っていますが、それは技量熟達した方でも、才気煥発さいきかんぱつな者でも、単に多くのお金をくれる人でもありません。ともに剣を通じてなにかを学びあえる、ある意味では「友」が欲しいのです

時には剣を交えることもあるかもしれませんが、最終的には居合を通じて、より多くの良き「友」を得て、また私自身が誰かにとってのよき「友」になれるよう励むこと。これが私の神変自源流しんぺんじげんりゅうであり、その実践の場が道場だと思っていただけると幸いです。





関連リンク


神変自源流 一ノ割道場 紹介ページ
神変自源流 一ノ割道場 公式Twitter
天眞正自源流兵法 公式サイトに置ける神変自源流の紹介ページ



※記事の内容は、寄稿頂きました細沼孝宗 様の文章であり、居合道 道場案内所としての意見ではございません。


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