「居合とは何ですか?稽古をすることで何が得られますか?」と、一般の方に尋ねられることがあります。居合道を稽古する多くの道場では、刀を持って相対して強さを競い合う、ということは行いません。武道と言いながらも戦わない。では何のためにするのか?この難しい質問について真剣道 基道館 卍有城齋様に執筆をしていただきました。
居合とは何か
居合とは何か。居合の修行を通して何を得るのでしょうか。
私たち基道館は「循環無端」の教えを常に心に修行しています。循環無端とは、闘戦経という、西暦一千年ごろにつくられた日本最古の武経の正典にある考えです。
循環、すなわち巡り巡って端無し。無限に行き詰まる事が無い。現象的には相対立する二つのものが相互に循環し交流する。いわば自他の相対を超えたところに良き循環が生じ、創造的世界が開けてくることを教えているものです。
そして身につけた居合者の感覚を社会に生かせてこそ実を結ぶ修行の方向だと考えています。
原初、闘争の具として発明改良された術は徳川期「人道の糧」と昇華しました。
現在では先人の苦労により、人格形成の道となっています。そこには体格、男女、老若の区別なく、道を求める人々に「惜しみなく」すべて与える真剣道があって当然のことです。勝敗など、取るに足らぬこと、まして段位の高下など「人間力」に比べたら何の意味がありましょうか。
しかしながら、勝ってやろう、こちらが上だ、という邪心は人間にはつきものに違いありません。「武」を精神性にまで高めた先人の知恵を生かすためには、武術といった難しいジレンマを内包するカテゴリーにおいて、矛を止めるという、字義そのものではないでしょうか。
日本の武は、正・速・強・威の段階を経て「無刀」に至る道筋を示しています。それは最終的には武威を持って争わぬ段階を目的としています。
このジレンマを超克する文化は日本以外になく、この精神的効用は世界に類をみない「精神」のあり方でありましょう。そのような日本独特の伝統継承も基道館の使命の一つであります。
居合も趣味でやる人、健康のためにやる人、武道として取り組む人と様々でしょう。しかし、居合という日本文化の精華に出会った限りは気持ちだけは真剣道で稽古をしてもらいたいと考えています。それは圧倒的な文化の厚みを体現しながら、一歩でも前に自分を運ぶ手段だから。その為、普段のお稽古でも着物(稽古着)の着付けの仕方や礼法など、刀を使わない稽古も行います。
居合はしみじみと自分に向き合うことです。見せびらかしたり、自己満足で終わっては、先人に申し訳ない。自分を知り、しみじみと己自身になりきる修行を居合・真剣道といいます。外の敵を倒す前に、自分の内側の敵を克服する。
そういった姿勢は、やがて骨格となり、教養となり、薫り立つ「人格」となって行くことでしょう。それは、自分を信じる一歩を踏み出すことに繋がり、自分を信じてこそ、他者への思いやりも湧きます。
心の働きと、身体の働きを調和さすところに主眼を置き、永き伝統、先人の教えに敬意を持って日本古来伝承の武術たる真剣道居合を修することにより、自己の心身錬磨のみならず、社会有意の人となる。また、日本の伝統や精神を後世に、世界に広く伝承する。
正武堂堂。
正しい武は確実に実を結び人間性を高めてゆく、その実力は侵しがたいものとなります。
基道館の居合とは、そのような居合です。
関連リンク
真剣道 基道館 紹介ページ
※記事の内容は、寄稿頂きました卍有城齋 様の文章であり、居合道 道場案内所としての意見ではございません。