現代における「居合」とは何でしょうか。仮想敵を相手に抜き付ける、しかし実際に現代において、そのような修練は役に立つのでしょうか。今回は独立した道場として居合術・剣術・杖術・護身体術・身体操作法などを教えている遊武会 石田様に意見をお伺いしました。
※一般的に居合の演武に用いられる「かた」という文字は、「形」という漢字が用いられますが、今回ご執筆をいただいた遊武会 様では原則「型」という漢字を使用しており「形」の字と明確に意味合いを区別していらっしゃいます。そのため文中では全て「型」として統一しています。
※一般的に居合の演武に用いられる「かた」という文字は、「形」という漢字が用いられますが、今回ご執筆をいただいた遊武会 様では原則「型」という漢字を使用しており「形」の字と明確に意味合いを区別していらっしゃいます。そのため文中では全て「型」として統一しています。
古流居合術への向き合い方 〜身体操作法の鍵として捉える「型」〜
1.居合探求の道へ
今回コラム執筆の機会を頂きましたので、私なりの居合術への取り組み方について書かせて頂くことに致します。
現在当会では居合術・杖術・体術・身体操作術等の稽古を、関西各地で定期的に行っています。様々なスタイルの稽古会を実施していますが、私自身の武術の骨格になる部分は「無双直伝英信流居合術」であり、居合を深めるために自然と他の武術の稽古、研究にも幅が広がってきた結果、今のようなスタイルになりました。
約30年前に縁あって、大阪の明心館道場にて無双直伝英信流居合術を学び始めました。師に恵まれたこともあって、最初の2、3年はただ楽しいばかりの稽古の日々でした。
しかし居合について真剣に向き合うほど「現代人にとっての居合とは何か」「何のために居合を学ぶのか」という疑問が生じ、他流や他の武術についての見聞を広げる中で、多くの迷いや悩みを抱えるようになりました。そうして数年を過ごすうちに、やがて「武術としての英信流を深く掘り下げるためには、今の状況や流儀から一旦距離を置いて、より広い視野と経験を得る必要がある」という思いに至り、断腸の思いで、師の下を離れる決意をしたのです。そこに至るまでの経緯において、私に一番大きな影響を与えてくれたのが、松聲館の甲野善紀先生の存在です。
常に常識を疑い、新たな可能性求めて武術研究に取り組み続ける甲野先生の姿が、独自に居合術を深める道に入った私に、多大なる勇気と希望をもたらしてくれました。
道場を辞した後に甲野先生とのご縁もでき、遊武会発足以来20年以上に渡ってお世話になり続けています。杖術や体術、身体操作術などへの取り組みも、このご縁から広がりました。ただ、甲野先生とは決して師弟関係という訳ではなく、武術を研究する上での大きな指針として頼りにしつつ、大阪での講習会を主催して甲野先生と多くの方とをつなぐ役割を果たすという立ち位置で居続けているのです。そのおかげで多岐に渡るジャンルの方々との交流も生まれ、私自身の稽古の幅も予想以上に広くなりました。
2.手段や課題としての型
居合は型武道の極みであると言えるでしょう。現実的な相手と対峙することもなく、定められた手順に従って想定に沿った動きを繰り返すことで上達を得る訳ですが、残念ながらそこに実戦の感覚はほとんどありません。多くの場合、居合の修練の結果として求めるものは「上手に型を演じること」であるのではないでしょうか。大会や演武会などの場で評価を得んとするがために、知らず知らずのうちに「見せる居合」を求めることに終始してしまうのが、居合に限らず型武道全般に言えることであると思います。
ここで一つ考えなければならないことは「居合における武術性、実戦性とは何か」ということです。現代社会において、いかに日本刀を上手に扱えようが、現実的な有用性は皆無です。仮想敵とはいえ、型の中でいくら相手に打ち勝つ技量を身に付けたところで、我々が生きていく上で役立つことはありません。では居合の価値は居合という世界の中だけで完結するものでよいのでしょうか。それをよしとする考え方も、居合に向き合う姿勢として決して間違ってはいません。古来からの伝承を守り、日本人の身体文化としての居合を後の世に伝えることも欠くべからざる重要事項です。
一方で、居合の実戦性を求めて、道具を工夫し実際に相手と打ち合う稽古法を取り入れている道場も存在します。これは一種の競技化であるとも言えますが、これも一つの価値観として、旧来の稽古法だけに納まらず、真摯に居合に向き合う前向きな姿であると思います。
このように居合には多様な向き合い方がある中で、私が居合の稽古においていつも口にするのは「型は答えではなく、手段であり課題である」ということです。刀を用いることが居合の前提であるとすれば、居合の技法を身に付けることで、いかに居合という世界の外側(刀のない状況)でも有効となる身体操作法を得られるか、ということです。
武術は臨機応変の対応力を得ることこそが眼目であり、それはあらゆる状況、あらゆる環境の中で有効であるべきものです。居合の型に含まれた動き方や、刀の形状・機能性を、それらの中から導き出される身体運用の真理を見出すための課題であると捉えることで、状況や環境を選ばない対応力を獲得する手掛かりになると考えています。型や刀は難解なパズルであり、その解き方を試行錯誤することで、常識外の思考法や身体操作法を身に付けつけるための鍵を得るのです。
また、型稽古は想定に沿った動き方を習得することではなく、日常動作やスポーツ、介護など、生きる上での様々な動きに活かせる汎用的な身体操作法を獲得するための課題であると思って型に向き合うと、刀を抜くことの意味が大きく違って見えるはずです。充分な対応力を発揮できる身体操作法を身に付けられれば、最終的に型は必要なくなります。そこを目標として型に取り組んでいるのが、当会の稽古なのです。
全体での稽古風景
3.主題を明確にしつつ、狭量にならない
古流居合術において、伝えられた型を安易に改変することは禁忌とされており、それについては私も全く意を同じくします。しかし一方で、流祖の時代から現代まで、その質を損なうことなく正しく伝承が継続されてきたかというと、そこは疑う余地も大いにあると考えざるを得ません。たとえ師の教えであっても、疑うべきところは疑うのが正しい稽古のあり方であると考えており、私自身も常々稽古の中で「私の言うことを安易に鵜呑みしないでください」と口にしているくらいです。
同じ英信流でも、道場や所属する連盟が変われば、それぞれに業前や理合が異なるということは、多くの経験者の知るところであると思います。ここで「どれが正しいのか」ということを問うのは愚行と言えるでしょう。道場それぞれに、指導者それぞれに、型の中に何を求めるのかということを明確にし、居合を稽古するにおいての主題を共有することを、道場や稽古会という場の役割であると捉えればよいのだと思います。
ただしその主題は、その道場内でのみ正論となるもので、他所と比較して是非を語ることは必要ありません。人情として、自分が信じてやっていることこそが正しいと思いたいのは止む無きことで、かく言う私自身も思い当たります。
居合についての価値観を狭量なものにせず、常に客観的思考を以って型のあり方や動きを吟味し続けるのは簡単なことではありません。内にだけ向きがちな目を広く外にも向ける意味で、当会では会員各自の他道場での稽古を一切制限していません。他所での経験を当会に持ち帰ってもらうことで、私自身の見聞も広がることになり、悪いことは何一つないと考えているからです。そもそも「所属」という概念が非常に希薄なのです。逆に他道場で修行されている方が出稽古として当会に参加されることも随時受け入れています。経験のある方ほど、当会の稽古法をご自身の経験と照らし合わせて比較検討してもらえる分、より質が伝わりやすくなるので、私としてもありがたいのです。
実際に相対して型の整合性を研究する
4.楽しむこと、探求心を持つこと
当会で居合の稽古を何年積んでも、段位や地位を得られることはありません。客観的な評価を期待することは、自分自身の動きを吟味する妨げになると考え、段位の発行などは一切していないのです。これは見せる要素を排して、動きの本質のみを求める稽古に特化するためです。「できるか、できないか」ただそれだけの稽古なのです。それと同時に、評価を期待しないことと自己満足に陥らないことの両立が難しいのも事実で、そこをうまく導くのが、稽古に来られる方々に対する私の役目であると思っています。
ここまで居合の稽古への向き合い方を色々と書きましたが、これはあくまでも私自身の理念であって、会員諸氏には、それぞれなりの思いに基づいて、居合術や杖術、体術に取り組んでもらえれば良いと思っています。当会の稽古に参加される方に私が求めることは「心から楽しいと思って稽古ができること」「常に新しいことを発見しようとする探求心を持つこと」の二つだけです。
何より私自身が居合を主とした諸武術の稽古、研究を心から楽しんでおり、会員諸氏はそれに賛同してくれる人であるという認識でいます。これから居合を始めてみたい、また経験はあるが違った価値観の稽古も経験してみたいという方には、是非一度稽古にご参加頂ければと思います。
遊武会の業 居合の身体操作「“浮雲”の足裏返しと抜き付け」
遊武会 Youtubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCewPflQteJrxC0NVuHIj9Pg
関連リンク
遊武会 紹介ページ
遊武会 公式サイト
※本記事は、発行元の許可を得て掲載しております。また記事の内容は、寄稿頂きました石田泰史 様の意見であり、居合道 道場案内所としての意見ではございません。