『自分の道場を開く』というのは簡単なことではありません。厳しい修行の末、自分なりの理念・哲学を実現するために新しい城を持つのです。春雷館は2017年9月に開いたばかりの道場です。この『春雷』にはどのような哲学が込められているのでしょうか。今回は春雷館 清水様に、氏自身の居合について執筆していただきました。
私の居合の定義について
1.はじめに
二十代の頃に出会った一冊の歴史小説を機に、戦国時代から幕末までの武士・侍の生き方、尊さに感銘を受け、私自身も剣技を体得したいと思い、無双直伝英信流 居合道の道場に入門しました。
三年目には自分なりに疑問や課題を感じるようになり、次の境地を求めて、複数の流派の道場、異なる連盟の道場の門戸を叩き、多くのことを学びました。剣を通して学ぶことや得ることは非常に多く、これを私自身が成長の途中でも、次の世代に引き継いでいきたいと意思決定して稽古に励み、居合を始めてから十一年目で師から道場開設の許しを得て、現在に至ります。
私が求める境地に進む中、多くの師・兄弟子・剣友に恵まれたことで、様々な課題・葛藤を乗り越えてきましたが、これからも多くの学びを得ていきたいと思います。
私の居合の定義には、精神性と実用性の二つの側面があります。
2.居合における精神性
強い集中力で仮想敵を迎撃する居合の形稽古は、不意の襲撃にも冷静に対応する力を養います。大切なのは不測の事態にも動じずに対応できる心体の維持にあります。その鍛錬された集中力・対応力は、仕事でも私生活でも役立ちます。形稽古によって養われた強い集中力は、仕事中にコツコツと働く集中力、不測の事態に動じない不動心に通じます。
また居合道の稽古を通して、武道としての礼節・品格・高潔な姿勢を学ぶことができ、それらは日常生活における他者とのコミュニケーションにも役立ちます。驕らず、謙虚ながらも心から強く貫きたい意思が必要であり、その想いを胸に抱きながら、信ずる道を進みます。
道場名である「春雷館」の「春雷」とは、『厳しい冬を乗り越えた時に春の到来をつげる雷鳴』という意味です。日々鍛錬して課題や試練を乗り越えた時や火急の時に発揮する力が平和をもたらす姿勢が、私の居合の精神性と重なると思い、道場名にしました。
刀工の精魂で鍛錬された日本刀には実用性と美術性を兼ねており、その存在から得る精神面での影響力は、私自身の剣心体の一致を高めて、不動の心で乗り越える意思決定力を培います。刀を持つ・帯びる・抜く・斬る・眺める・手入れする、という行為には、心体との触れ合いに力をもらいます。
繊細で華奢ながら、手に取れば重く、ゾッとするほど鋭利な美しさがあり、触れ合う時間や鍛錬が多いほど、刀から力をもらいます。心体の一部といえるほど刀と一体化してくると、自身にはない力を纏っている心地になります。古い刀ほど、その存在感や手に持つ不思議な感触は、新しい力をもらいます。
人は行動・習慣・人格・運命の順に形成すると言いますが、居合で培う精神性は行動を変え、やがて運命を変えます。私も居合に影響された行動の変化から多くの方や場所に赴くご縁が増えたことで、日常生活や休日の過ごし方も変わりました。
居合や日本刀にまつわる歴史・観光地などを巡る動機や行動はさらに精神性への影響があり、次々と課題・目標が変化していきます。日常にて、どこで何をしていても、己は剣の世界に住んでいることを実感し、何があっても居合で鍛錬された集中力・対応力で乗り越える覚悟を保てることは、居合という日本で独特に形成された文化・技術があってこそと感謝しております。
居合から影響される剣豪・偉人もまた、自身の歩む道での手本となります。最も手本にしているのは幕末の北辰一刀流 千葉 周作です。理由は、若くして免許皆伝となっても、既成概念に異を唱え、守破離の離を貫く姿勢です。仕事でも剣術でも既成概念にとらわれず、形骸化する事象を分解・再構築させる力を得ることは、いつの時代にも必要なことだと思います。居合というのは、繊細で鋭利で美しい日本刀と共に先人が培ってきた剣技と歴史から学ぶ精神性と共に生きることだと思います。
3.居合における実用性
居合は元々は剣術の一部でしたが、現代では居合だけに特化したものが居合道として普及しています。なので私は居合だけでは剣術としての実用性が不足していると思います。
つまり、剣術として、形稽古・組太刀・試斬などがありますが、現代の居合道では一人で稽古することができる形稽古が中心です。居合は鞘に収まる状態からの抜き打ちで相手を仕留めるとありますが、抜き打ち以外のシーンも網羅した刀の使い方を熟知している必要があります。ゆえに、私は居合の形稽古、相手と対峙する組太刀、どちらの所作でも刃筋を確認するために畳表巻を試し斬りします。
さらに、組太刀が長けてくると、自由な組太刀にも発展しますが、いかに自由つまり実戦を想定した所作が難しいことを痛感します。実用性での呼吸・刀の使い方・足腰の使い方などは、私は複数の流派の経験からブレンドされたことであり、一つの流派として言い切ることはできません。
武器としての刀の実用性ですが、斬れ味・長さ・重さを考えた時、よく斬れて頑丈で扱いやすさを求めます。軽くて短くて平肉のない刀なら、抜き打ちも試し斬りも楽々できますが、抜き打ちだけで済む実戦の機会は難しいので、重くてほどよい長さで平肉もある刀でないと、すぐ曲がったり折れたりします。稀に、至って華奢な刀なのに、とても粘りのある頑丈な刀がありますが、それを見極めて購入することはとても難しいです。
肩書きが名刀・業物とあっても何の知識もなく得たところで、全くの鈍刀というのはよくあります。同じ刀工でも作刀方法・その時の技術は異なります。鑑定書があっても真贋は難しいのです。居合としても剣術としても実用性を追求すると、本当に命を預けられる刀なのかを長年追求しています。
古い刀は歴史的価値も含めて、現代の稽古のために消耗はできません。ただし、居合の形稽古のみなら、試し斬りをすることもないので、古い刀は使います。古い刀は破損しない限り永続的に残りますが、人は一時的にその刀の所有者でしかありませんので、継承されていくことを前提に刀を使い分けています。
居合の形は実用性がどうなのか疑問が起きやすい内容が多いので、ただ形の所作を覚えても臨機応変に使い分けることが難しいです。組太刀もまた、なぜそうなるのか、本当にそんな攻撃がくるのか、と突き詰めるほど疑問がでます。そこで師から本当の理合を口伝で知ればいいですが、口伝もないこともままあります。試し斬りもまた同様です。無抵抗な畳表巻と実戦では違うので、使い分ける意識がないと実用性にはつながりません。
これは昔からあると私は思います。俗に武者修行なり、かつて数百の流派があったと言いますが、一つの流派・伝授だけでは満足できず、他流に転籍したり改編して流派を立ち上げたりしてきた歴史があります。ゆえに、私も複数の流派・道場を経てきてます。最初の道場で全て満足できるなら、それはとても幸運な方だと思います。私が居合における実用性を追求することは、精神性と同じく果てしなく求めることです。
4.総括
私にとって居合とは、精神性と実用性を兼ねることです。実用性に精神性は相反するので、二つあってこそ成立します。先日、師の昔の動画を見ました。日頃の言動・所作も重々承知しているはずなのに、圧倒されました。心よりこうありたいと思いました。やはり、私もまだ道半ばということです。
私の生徒達が同じ道を歩むのかはわかりません。指導者としては、どちらも最大限の情報・選択肢を提供することであり、各々がどう開花するのか、どう歩むのかは、強要することではありません。志向とは、一定の情報が前提でも、各々が本当の意思決定をしなければ続きません。つまり、私の色に染めたいとは思わないのです。むしろ私とは異なる色に開花してくれた方が剣の世界にとっても新しい可能性が誕生したと祝うべきことだと思います。
これからの時代は、ますます個性や志向の強い方々が活躍する時代です。与えられたことを覚えるだけでは難しい世代になります。居合でも仕事でも、守破離の『離』ができる能力が問われると思います。
春雷館は、次世代の守破離を支える道場でありたいと思います。
清水氏による抜刀演武
関連リンク
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※本記事は、発行元の許可を得て掲載しております。また記事の内容は、寄稿頂きました 清水圭介様の意見であり、居合道 道場案内所としての意見ではございません。