居合道 道場案内所 


かた稽古というのは、何度も同じ技のかたちを繰り返し練習することにより、身に染み込ませることで、不意の事態にも対応できるようにするための稽古法です。またその整合性を確かめるために組太刀くみたち稽古を行います。では形稽古・組太刀稽古を行っていればそれで良いのでしょうか。不意の事態にも冷静に対応する精神面はどのように養うのでしょうか。今回は居合における「心法しんぽう」の重要性について、誠至館 浅野様にお伺いしました。




居合から見出されること


ー 誠至館 浅野康人 著


1.武士と居合 〜武士は「刀を抜くことはできなかった」?!


浅野康人 氏「居合」や「剣術」が流派として確立したのは室町むろまち時代(1336年 〜 1573年)です。特に戦国時代という世の中を背景にして多くの流派が始まりました。私が継承している無双直伝英信流むそうじきでんえいしんりゅうは、林崎 甚助 源重信はやしざき じんすけ みなもとのしげのぶ(1542年〜?)を流祖としています。流祖が生きた時代は、織田 信長おだ のぶなが今川 義元いまがわ よしもとを破った桶狭間の戦いおけはざまのたたかい(1560年6月12日)の頃となります。

その後、居合が流派として昇華しょうかされたのは江戸時代(1603年 〜 1868年)です。「居合」と「剣術」は何が違うかというと、「居合」は鞘に納まった刀を一瞬で抜いて相手を斬る技術であるのに対して、「剣術」は刀を鞘から抜いた後に相手と戦う技術だということです。戦国時代を経て、徳川の時代となり、武士はいわゆる『戦士』の側面から、『行政官、司法官』といった社会を治める為政者としての側面が強く要請される立場となりました。

武士はその意味で大きな権力を持ったわけですが、権力を持った以上に大きな義務を負っている存在でありました。それは、一言でいえば「人の上に立つものとしてはんとなる存在」でなければならない、もっとわかりやすく言えば「武士として生きなければならない」ということです。

彼らは、武家諸法度や藩法などの武家法に拘束されるとともに、「武士道」という不文律に常に規律され、廻りから監視される存在でありました。その彼らが、「気まぐれに刀を抜いて」民百姓を斬るなどいうことが許されるはずもありません。もしそのような振る舞いがあれば、「御家断絶」や「切腹」まで覚悟しなければなりません。武士は、ある意味で「刀を抜くことはできなかった」存在であったといえます。

しかし、その反面、義務として「刀を抜かなければならない」場合がありました。それも「武士として」という強力な規範的側面を伴っています。私が居合の流儀の先輩から聞いた話や歴史を検証した結論として、「武士が刀を抜かなければならない」場合とは、次の三つの原則があります。

(1)上意討ちじょういうち
これは藩主から「討てと命じられた場合」です。武士はそもそも主君に仕える戦士であって主君から「戦え」と命じられれば「刀を抜いて」戦わなければなりません。

(2)仇討あだうち
但し、これは藩から許可を得て行われなければなりません。

(3)介錯かいしゃく
「介錯」はご存じの通り、切腹せっぷくする侍の苦痛を速やかに終わらせるために首を斬ることです。

「武士が刀を抜かなければならない」原則は以上ですが、原則があれば、当然ながら例外があります。それは、「相手から斬りつけられた場合」です。

侍が刀で斬りつけられた場合、刀も抜かずに一方的に斬られた。ましてや、逃げようとして背中を斬られて死んだとあれば、武士として不名誉極まりないことになり、末代までの恥となります。藩主の命令で相手が斬りに来ようが、武士として立ち向かわなければならなかったのです。

介錯は別として、武士が「刀を抜かなければならない」場面のほぼ全てというのは、こういった「上意討ち」と「その反撃」即ち、どちらも「刀を一瞬に抜いて相手を斬る」場合だということです。江戸時代の侍にとって、「剣術」はもとより、実は「居合」の場面を想定した技術の習得が必要だったのです。「居合」は剣の道における脇役などではありません。むしろ武士にとって主役だったのです。

2.居合において目指すもの〜「離れの極み」


「上意討ち」する侍であろうが、その反撃をする侍であろうが、居合において重要とされる技術とは、「刀法とうほう」と「心法しんぽう」において「起こり」の無い抜刀です。

刀法とうほう」とは、刀を合理的に抜き放ち相手を制する身体操作のことを云い、「心法しんぽう」とはその際の心の動きを制御する技術を云います。

この両者を全うすることで「はなれのきわみ」に近づくことができます。鞘から刀を「抜く」というのではなく、刀が鞘から自然に「離れ」た抜刀です。例えて云うならば、桜の花が散るように何の前触れも無く、枝からはらりと落ちるような抜刀です。

居合の稽古は真剣、あるいは居合刀を使用して、伝承されたカタを繰り返し練っていくことです。仕合をすることはありません。常にカタが想定する状況とそこに登場する敵を仮想して稽古することになります。

長年稽古を続けていくと、「不本意な結果」となることの連続の中で、時として「優れた結果」、即ち「起こり」がなく、最も合理的な動きを自然に為した時があります。「優れた結果」を為す要素とは何なのかについて、長年思いをめぐらせて参りました。そして、「心法」における是非がその重要な要素であると気づくに至りました。

よくスポーツなどで「ゾーンに入る」と云いますが、居合においても、「気が付いたら演武が終わっていた」「己そのものが居合となった」ような深い感覚になることがあります。居合は、いにしえより「動く禅」と言われてきました。

日本曹洞宗そうとうしゅうの開祖、道元禅師どうげんぜんじは、「仏道を習うというは、自己を習う也。自己を習うというは自己を忘るる也。」正法眼蔵しょうぼうげんぞう現成公案げんじょうこうあん」)と云っております。これはそのまま「居合を習うというは、自己を習う也。自己を習うというは自己を忘るる也」と言い換えることが出来ます。

居合の稽古をするとは、「離れの極み」を目指して、自分自身の「身体」「呼吸」及び「心」を見つめることです。演武において、人に上手く見せようとか、真剣に対する恐怖の感情に囚われた時の後味の悪さを何度も経験します。私は、こうした「離れの極み」を目指す稽古を通して、善悪、上下などの二元的思考を超えて、人の心の奥底に本来備わっている「本然ほんぜんたる自己」を発見し、それに任せきることの重要性に気づくことが出来ました。禅で云う「身心脱落しんしんだつらく」の境地といった、自由で解放された自己を居合稽古から見出すことが出来ると思います。

稽古の様子
稽古の様子



3.居合稽古の現代的意味


福沢諭吉(原文)
腰間秋水一揮揚
自是先生養老方
二豎多年侵不得
知他宝剣吐龍光
此居合之詩
御一笑可被下候

(現代語訳)
腰に差した刀を一たび抜き放てば
これにより先ずは老を養う健康法になるのである。
私は長年、この稽古により病気になったことがないのである。
更にこの宝剣を(ひとたび放てば剣先より)龍が光を放つ如き威力を発揮するのである。
これは居合を漢詩にしたものです。
どうぞお笑いくだい。

※「秋水しゅうすい」とは「刀」の美称、「二豎にしゅ」とは「私」をへりくだった意味


この漢詩の作者は、福沢諭吉です。彼の流儀は中津藩(今の大分県)に伝わる「立身新流たちみしんりゅう」という流派です。彼は一日千本もの居合を抜く稽古を生涯にわたり続けていました。

現代社会において、刀で人を斬ることはありません。本当の意味において「強い」とは、心身共に健全であることです。「離れの極み」を目指す稽古は、身体の無駄な力を抜き、心を無心にすることでストレスから心を解放し、無理なく健全な心身をつくることができます。

居合は、福沢がこの漢詩の中で云っているように、年を重ねてもすることが出来、病気にならない強い免疫力を持った身体をつくる最良の健康法でもあるのです。

誠至館の皆さん
誠至館の皆さん


浅野氏による無双直伝英信流 居合演武








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