
居合は甚だ厄介だしまた我流では何も出来ません。「ハー」と吐くべき息を「ウン」と呑み込む工夫を当流入門者にはまず覚えてもらいます。
当流を無双直伝英信流と命名したのは林崎甚助先生より十七代の大江正路先生です。明治の末期に大江正路先生は現在の流名に変更すると同時に業の呼称を現代風に変え万人に覚え易き様にされたと教えられました。
この伝統居合無双直伝英信流を金沢に定着させたのは十八代の穂岐山波雄先生の直門人である野村條吉先生もその一人であることに異論はあるまい。
野村先生は大正十四年七月十日に高知市立商業学校へ第一回配属将校として赴任され、穂岐山波雄先生に殆ど毎日師事され又、時折大江正路先生からも精神的、或いは技術面のご指導を受け斯道の研鑽をされました。
野村先生の居合歴は昭和三年五月に精錬証(大日本武徳会における表彰)、昭和四十年十一月に十段位允可、昭和五十三年四月二十五日に心臓発作で八十四歳で逝去(追称号名人位)される前日まで身と鞘の離口の鍛練を忘れなかったそうです。
野村先生の遺教の「控」では「総ての居合形は如何にすれば流水の運技、運刀が出来得るか、如何にすれば円転滑脱で節度ある流水作業が出来るかの教育業である」と言い切ってます。そして当流の真髄は「やはり手を取り足を取らなくては理解不可能だから師の教えを練る事」と書き遺しています。
また野村先生の作法中の礼式は、穂岐山先生からは「何時の頃からは不明だが土佐では小笠原の礼式に拠り極められている」との教えに習い従い金沢でも刀礼・師礼はその通りにやっています。
技については例えば八重垣は斗技としてではなく運剣を教える為の指導技であるとし先人が究めた結晶の成果であるが「どこにも不都合はあるまい」と言い切ったそうです。
金沢居合は野村條吉先生没後、直門人である谷口忠先生へ引き継がれる。谷口先生は基本技と其の精神は「ありそうな話」、「あったかもしれない技」、「あるいはと思わせる珍論」で余計な努力をしたフィクショナルな居合でも、「それを悪く言うのはいけない。時勢の影響も見逃してはだめやが金沢の居合はこんでいいがや。形式では現代居合に拠っているかもしれんが、少しでも昔風の気分に浸ってくれればそんでいい。」と諭されました。
また「手の内の極まる一呼吸は掟通りでも先人の心を伝えきれない伎(呑、吐)では何本抜いてもほんまもんになれんわね」ときつく教示されました。
前師谷口忠の一刀で叩き伏せる円転の運剣に今の一番が少しでも近づけたのか・・・野村先生の孫弟子が愛弟子と共に正しいと信ずる居合を探求し把握しようとしています。
稽古が出来る事を歓ぶ人、技で苦しむ人、今はもう楽しんでいる人など様々の仲間たちの集まりです。