■肥前兵法タイ捨流の紹介
タイ捨流始祖、九州相良肥後人吉、丸目蔵人-藤原長恵は、今より400年前、剣の聖と言われた新影流始祖上泉伊勢守信綱の門人となり、剣の奥義を極めた柳生但馬守、匹田文五郎、穴沢浄賢と並んで四天王の一人としてうたわれた剣客である。
「タイ」と仮名で書くのは、「体」とすれば体を捨てるにとどまり、「待」とすれば待つを捨てるにとどまり、「太」とすれば自性に至るということにとどまり、「対」とすれば対峙を捨てるにとどまり、字によって意味を限定してしまうので、仮名で「タイ」と書くことで何れの意味にも通じることができるからである。
技は新陰流を基礎として、自分も生かし、相手も生かす「活殺剣法」で、形の最大の特徴は、右半開に始まって左半開に終わり、すべて袈裟斬りに終結する独特の構えにある。
宗家の家紋である九曜の型による円の太刀、飛掛り飛廻って相手を撹乱して打つ技、刀と蹴技・眼潰を組み合わせた技等々、実践剣法を現在に伝えている。
タイ捨流独特の構えが右半開に始まり、左半開に終わりすべて袈裟斬りに終結となる。他の流派には見られない逆足も特徴的である。
肥前(佐賀県)には丸目蔵人自らが訪れ、武雄の木島刑右衛門らに相伝したため、肥前ではタイ捨流が盛んとなった。
鍋島藩の二代藩主鍋島光茂の御側頭を務めた中野就明は、その刑右衛門の孫弟子にあたり、これを宝永7年(1710年)に「タイ捨流解紐」を著した。
また、葉隠を著した山本常朝は中野就明の従弟であり、タイ捨流に入門していたとされる。当時、肥前における剣術の本流は、タイ捨流から新陰流に移っており、就明は「伝流ノ源ヲ失ン事ヲ憂ヒ」と、口伝の極意も含めてわかりやすい解説書としてまとめた。
その後、肥前のタイ捨流は中級・軽輩の武士層において広まっていたが、幕末になると十代藩主鍋島直正が自らタイ捨流に入門している。
丸目蔵人佐が起こした【タイ捨流剣術】の唯一正統血統である。
【八代龍泉館】の指導の下 肥前兵法タイ捨流剣術は鍛錬、歴史保全を目的とする研究活動を行っております
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